親のこと

「親ガチャ」という言葉が生まれた背景に思う

投稿日:2021年12月13日 更新日:

コロナ禍で、貧困格差がかなり広がって可視化されるようになり、『親ガチャ』なる言葉が、ネット上に散見されるようになりました。

自分も、親をテーマにブログを書いているので、気になる言葉でした。

自分の親のことを、当たりハズレと言うつもりはないけれど、その言葉が生まれた背景に興味を持ち、思うことを書きました。

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親ガチャとは何か

親ガチャとは

親を選べないという意味合いで、カプセルトイなどのガチャガチャに例えている。
カプセルトイは引き直しが効くが、親の場合はそれもできないということで、最近は「リセマラできない」なる言葉も。

「リセマラ」とは?
リセットマラソンの略。スマートフォン用ゲームのアプリケーションを、インストールとアンインストールを繰り返すことで目的のアイテムを入手すること。
こちらもゲームからの娯楽用語。

「親ガチャは遺伝子や環境など複雑に絡まって今の状態になっているのでリセマラできない」とあきらめるとか。     

自分は子供がいませんが、

「親ガチャハズレ」って、言われたらかなりショックだろうなあ‥

というのが、まず最初に浮かびました。

実際、調べて見ると、「親ガチャという言葉が嫌いだ」と言っている方も少なからずおられ、流行っているというよりも、社会現象として現れた言葉を使っている人が多くなった結果なのでしょうね。

自分も、親とはケンカもしたし、色々とありましたが、今の時代、子供生んで育てるだけで「無理ゲー」と言われることもあり、学歴も高くなかった親が、よくまあやってこれたものだと。
経済的に困窮すると特に、本当に子育ては大変だと思います。

経済力があればあったで、支配的だったりとか、過干渉とか過保護だとか。
『毒親』なる言葉もあり、家庭内の絶対的権力者という親から、追い詰められているような場合にも使われるようです。

なんにしろ、自立できない子供は親の庇護のもとで暮らすしかないですし、今の不況で自立するにしても難しいと、何かともどかしいですね‥

親の離婚はどう影響したか

うちの両親は、私が10代の頃に離婚したのですが、別れてから、私と姉は母と一緒に暮らし、父親は一人で離れて暮らし、15年ほど会うこともなくなっていました。

自分も、離婚経験者で
「ガマンが足りないのでは」だの
「別れてどうするつもりなのか」だの言われたこともありました。

「ガマンもなにも、今別れられなかったら、この先ずっとこんなガマンしなきゃいけないのかよ!」

みたいに思っていたので、母が離婚を決めたばかりの頃は、このままガマンしても良いことないと思ったのだろうなあと思い出しました。

親の経営するお店が経済的にピンチになり、親はよくケンカしていました。
母は、私が子どもの頃からお世話になっていた近所のおばさんに、父にわからないように自宅のアパートに来てもらって、泣きながらなにか相談していました。
その後母は外へ働きに出ました。

経済力があれば、無理して一緒にいる必要はないですもんね。

実際、母が別れてから、妙にイキイキしていたので、その影響が強くて、娘も結婚を選ばなかったような気がします。
イキイキして見えたのは、おそらくは自分でお金を稼げるようになって、経済的自由を手にした解放感からでしょうか。

女所帯になった家

男兄弟がいない家の娘が、結婚を考えたとして、将来的に
「自分の親の面倒どうする?」って話になったとき

「両方の親が何かあった時にはお互いに協力して助けないとね」
なんて、すぐ言える男性って、日本にはあまり居ないのではないでしょうか。

親の世話はヨメにやらせたいし、ヨメの親の世話は知らんといったテイで、家父長制引きずって思考停止したままなのがわかれば、
「あ~コリャ結婚したくないわ~。稼いで一人で暮らしたほうがいいわ~」
って、誰だって思うのではないですか。

なぜか家事だけ自分の役目になってて、夫と子供だけでなく親の(2世帯とも??)の世話まで自分だけで抱え込むことになったら、人生終わりみたいじゃないですか。

結婚するつもりだった相手に、そんな雰囲気を感じ取って、自分はもう結婚はいいやと思いました。

最近は、ヤングケアラーの問題まで出てきていて、介護問題は深刻になっています。

ウチの親は、東京に移り住んだ核家族でしたが、母の世代で、封建的な風習を残した地域に住んでいたら、さらにプレッシャーを受けていたかもしれません。

自分にもし子供がいたら、娘だろうが息子だろうが、仕事はなんでもいいから一人で生きていける生活力は作っておくように言うと思います。

死ぬときも、本来は一人で死んでいくものだという意識で、自分も終活を考えておこうと思います。

その上で家庭を作ろうと思うなら、うまく行くかもしれませんね。

男性のほうも、お金を持っている人なら、お金で解決できるので、無理に結婚望まない人も増えてきたそうで。

ただ、女性が一人で生活するにあたり、経済的でも防犯でもですが、本当に厳しいものです‥

母が離婚したばかりの頃は、まだバブルの名残で景気もそれほど悪くなく、仕事も順調でした。
母と姉と私で、いっぺんに無職になってしまったこともありました。

「おかんは仕事やめたよ」

「ええっ?なんだあ、わたしもやめたばかりだよ!」

「奇遇だな。わたしも先日やめたばかりだ。」

転職がうまくゆかず、みんなして落ち着かない時期でしたが、なんだかゲラゲラ笑っていました。

「どうせ、なるようにしかならんのだから、今日はステーキだ!」

と、母が高い肉を買ってきたのを覚えています。

生活が厳しかったころに、母は寿司屋(回らない)に連れて行ってくれたこともありました。
母はプレッシャーを感じた時に、かえってそういうことをするタイプだったようです。

私がよく「景気づけにケーキ」とか言って太っているのも、この頃の記憶が元ではないかと思います。

私は進学は一度あきらめ、仕事も何をしてよいかもわからず、漫画の仕事を始めるまではバイトを転々としていました。

ニートまではいかない、当時で言うところのプータローって言うんですか。(笑)

家事はかろうじて手伝ってはいましたが、家にお金を入れられるほどのお金は稼いでいなかった気がします。

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社会の問題が親ガチャという言葉で誤魔化されてないか

母は、やっぱり気苦労もあって、無理はしていたようで、離婚後、何度か体調を壊しました。
入院したこともあり、手術をすることになって初めて、体調が悪かったことを知りました。

 姉が始めたバイト先で、折詰弁当が配られたことがありました。

姉は肉類を食べないので、その弁当はお土産で持ち帰り、私と母で分けて食べました。
しかし、その後、そのお弁当で食中毒が出たとのことで、翌日職場から姉が電話をかけてきました。

食中毒が出て、当たりそうなものばかり食べていた私が平気だったのに、私に沢山食べなと言って、豆しか食べていなかった母が救急車で運ばれる騒ぎになりました。


(※昔『本当にあった愉快な話』という雑誌の特集で描いた漫画です)

なんだってそんなに無理していたのに、具合が悪い時も黙っていたかと言えば、離婚したことでそうなったと言われたくなかったのかな?と思います。

片親になっても全然ヘッチャラだと意地になっていたのかもしれません。

しかし、全然ヘッチャラではなく、後に母から直接聞いた話では、仕事を辞めてから、次の仕事がなかなか決まらなかったとき、生活費がなくなるぐらいに切羽詰まっていたのだとか。

思い悩んで、カードを作ってキャッシングを利用しようと思ったが、今までの職歴ではカードを作れないと言われたそうです。

母は、専従者として父親の自営業を長い間支えてきたというのに、それが職歴として認められなかったとくやしそうでした。

さらに、私がもう高校を卒業していたため、福祉をあてにすることもできなかったと、後に何度かくやしそうに語っていたことがありました。

今思えば、カード会社も、現在無職で文無しの人にカードを作らせることはなかったと思います。

しかし、こんなときに福祉がアテにできず、カードを作ってキャッシングしか方法はないのでしょうか。

今だったら、そんな時は何かしら調べて、助けを求めることもできたでしょうか‥

娘が働いていれば当座の生活はなんとかなると思っていたかもしれませんが、その娘も一気に仕事を辞めていたのですから、心中おだやかではなかったはずです。

その後、母はマネキン紹介所(ブティック店員の派遣会社みたいな感じ)で仕事を紹介してもらいに行き、そこで
「お金を前借りできませんか」と言ったそうです。

紹介所の人は、仕事も決まってないうちからそんなことを言うなんてと、驚いたそうですが、事情を聞いて、貸してもらえたそうです。

母はそのマネキン紹介所で仕事を紹介してもらえ、その後、仕事に恵まれて、店長まで任されることになったのですが、紹介所では、年齢を誤魔化せと言われていました。

年齢が若い方が仕事が決まりやすいからとのことでした。

母は、それがすごく嫌だったと言っていました。

なぜ、年齢を偽らないといけないのかと。

その後、仕事を辞めるまで、母はずっと12歳ほど年を誤魔化して働いていました。
派遣会社にそうしないと仕事を紹介してもらえなかったからです。

時々誤魔化していた年齢を忘れてしまい、仲良くなったお店の常連のお客さんに

「わたし今なん歳だったかしら!?」

とか聞いていたそうです。

自分も最近、しばしば自分の年齢がわからなくなりますので、今では笑い話にもなりません。

そんなスタートでしたが、母はそれからしばらくは仕事も安定して、バブルがはじける頃までは同じ店で働いていたと思います。

「うちにはお金がないから」とみんなあきらめる

私が大学を受験したいと思っていた頃、家にはお金がなかったようです。

お金がもとで夫婦げんかとなり、姉は留学中でした。

親は娘に、家にお金がないとは言えず、長女が行きたがっていた留学はさせていました。

私の進学のお金は父親がつかってしまったと母が言い、姉が居ないとき、私と母は母の実家へ行きました。
母はそのとき、離婚すると決めて、ばあちゃんやじいちゃんに言っていた気がします。

私はあまりその時の記憶がありません。

前後して、父の兄である伯父が倒れ、亡くなりました。
高校の2年生の頃で、新しいクラスになじめず、バイトばかり行っていて、2週間ほど不登校になっていた私でしたが、両親が葬儀に出ている間、お店の商品が悪くならないようにと、学校に行かないかわりにお店番をしていました。

進路がはっきりしないので、このまま店番してるのもいいなと思ったり
うちはこのままだとなんだか大変になりそうだなとボンヤリ思っていました。

その後母は、私の受験のお金は何とかすると言ってくれました。

しかし、受験は失敗してしまいました。

美大を志望していましたが、美大はお金がかかるからと、浪人したときは、一般の大学を受けることにしました。
要領の悪いのは昔からで、いきなり進路を変更してみんな裏目になりました。

大学はあきらめて就職しろと言われても、何をすればよいのやらでした。
お金がないので、これ以上進学のことは言えないと思って、しばらく何をするでなく、適当にバイトをしていました。

はたから見ればろくに働きもしないでプラプラしているやつでした。

受験ひとつするにも、お金の心配がつきまとっていたあの頃
「ウチにはお金がないんだ」で、色々とあきらめはじめました。

浪人したとき、高校のときのクラスメイトが、同じ予備校に行ってました。
「お金がないから進学はあきらめるかもしれない」と話をしたことがありました。

「奨学金を受ければ?」

と言われましたが、奨学金を受けられるほど成績が良くないからと言いました。

「俺そんなに成績良くないけど奨学金受けてるよ」という返事に驚きました。

しかも、その子の家は、持ち家に暮らしていて、両親もいて、ウチよりずっと裕福そうでした。

世の中の理不尽さをモヤモヤと感じるようになりましたが、誰のせいで、何が悪いのかはわかりませんでした。

自分も中途半端にプラプラしてる奴だったし、自分も悪いのだなと思い、何の解決策も見つかりませんでした。

奨学金が学生ローンのように長い借金となっているのは日本ぐらいだと見聞きします。

あのとき、お金のことをもっとよく聞いておけば良かったし、色々調べることもできれば、学費の心配せずに勉強に集中していただろうか、とも思います。

私も世間知らずだったし、親も福祉の情報には疎かったです。

今ですら公助の生活保護に偏見がぬぐえない社会ですし、生活保護を受けて大学へ行くのは贅沢なんて言われているぐらいです。
あの頃に生活保護の申請を出すのも、親の世代では今より抵抗があったかもしれません。

学費の心配をしていた頃、海外の大学は入るのはやさしいが出るのは難しいと聞きました。

お金のない子は、大学に入ったら休学して学費を稼いで、ある程度たまったところで復学するなどもできると、何かで聞いたか読んだかして知りました。

一年に一度きりの入学で、一斉に進学就職の足並みを揃えるなんて日本ぐらいだとか。

それを聞いて、海外のようになればいいのにと思いました。

勉強しておくべき時間に就職活動を始めるのも、大人になったら勉強を辞めてしまう人が多いのも、ヘンテコな国ジャパンならではです。

進学のチャンスふたたび

日本でも、大学の通信教育講座は、海外の大学とシステムが似ています。
年に2回入学を受け入れていて、基本4年で卒業とはなっているものの、個人の都合に合わせて更新もできます。

入るより出るほうが大変です。

仕事しながらスクーリングに通ったり、授業に出なくてもレポートを書いて試験で単位をとったりします。
スクーリングは夜学のコースもあり、仕事の帰りに授業も受けられます。

始めたばかりの頃は、社会人で仕事のあとで授業に来る人が多かったけど、あとになってからは、リタイアしてから大学の講義を受けたいと入学する60代ぐらいの方も多くみられるようになりました。

後者のかたがたは、余っている時間を勉強に使っているようでした。

仕事をもつ人は、夜学でも夏のスクーリングでも休みがとりにくいため、通いきれずに中途でやめてしまう人も多いです。

大人になって、大学で勉強するチャンスが巡ってきました。

父方と母方のの祖母が同じ年に亡くなり、お葬式に出るために、15年ぶりに父親と対面しました。

大人になった私と姉は、もう親どうしの仲たがいはとりあえずさておくぐらいにはなっていました。
「親子なんだし、たまには食事でも行こう」
と、父親が提案し、お盆とお彼岸のお墓参りと、父の日と父親の誕生日、年に3、4回ほど、姉と私と3人で、父の職場の近くや家の近くで食事をしながら、近況など話すようになりました。

祖母の葬儀のあと、食事にと誘われて会いに行くと、父がまとまったお金をくれました。

父は父で、私たちに何もできなかったのをずっと気にかけていたそうです。
母との離婚後は自営業をやめ、実家の近くへ引越してから転職し、お金を貯めていたようです。

私はそのお金で、以前から欲しかった普通免許を取るため自動車の練習所に行って、通信教育の大学に通うことにしました。

勉強は、記憶力がある若い頃にするべきという説は嘘です。
年とってからのほうが理解力はあり、知識が増えて行くのは楽しいものでした。

うちは貧困で苦労はありましたが、親は金持ちではなくても好きに本を買い与えてくれていたし、食べたいものも食べさせてもらえていたので、愛情は与えられていたのですね。

大人になってから大学で勉強すると言う私に
「今さら就職に有利になるわけでもないのに」と言う人もいましたが、漫画描く仕事であれば、知識はあった方が断然良いですし、色々な人と交流もできて、人生が豊かになりました。

親だけに責任の焦点が当たる危うさ

この10年ぐらいの間に、母親が小さい子供を置き去りにして死なせる事件や、トイレで子供を生んだ女性が逮捕されたり、自分の部屋で死産した子供を部屋に置いたままだった外国人留学生が逮捕されるなど、若い母親が責任を問われるニュースが目に留まることが多くなりました。

どれも、母親の未熟さなどは責められるのに、子供の父親のことには触れられず、透明人間は責任も追及されません。

親ガチャの問題もこれと似ていると感じます。
構造的な問題の中の一点だけ一生懸命ほじくっているようです。
今後もこういうことは引き続き起こり、さもなくば女性の自殺がさらに増えるのではないかと危惧します。

自分も、若い母親が小さい子を家に置き去りにして、最後に餓死させてしまったニュースを見て、なぜこんなことができるのだろうと戦慄しました。

うちの親は、確かにお金に困っていたけど、子供を飢えさせるようなことはけっしてしなかったし、できる限りのことはしていたはずでしたので、「コレが親か」と、始めは思っていました。

でも、その後、なぜこんな親がいるのか、どうしてこうなってしまったのかが気になり、その手の本を探して読んでみました。

一冊は『ルポ虐待-大阪二児童置き去り死事件』杉山春著(ちくま書房)

もう一冊は『「鬼畜の家」 わが子を殺す親たち』石井光太著(新潮社)kindleあり

正直、この二冊だけでも息苦しくなるほど読んでいてつらいものでした。

そして、この二冊だけでも、日本の社会構造が、やっぱりおかしいとヒシヒシ伝わってきて、寒々しい気分にさせられます。

『鬼畜の家~』は、実在の事件3件を、親世代まできっちり取材してかきあげたルポだけに、生々しい描写で、読んでいるうちに、この国はどうなってしまうのかと不安になります。

著者自身も感じていた「やるせなさ」を緩和するかのようなエピローグには、少し救われもしました。
特に、伊豆下田の事件は、私が何度も訪れていた好きな土地だったこともあり、読んでいてかなりキツかったです。

『大阪二児童置き去り事件』の中で、児童虐待は、親が単独で犯した事件だとは思えず、親の親、生まれてきた環境などが複雑に絡み合っていると語られています。

決して貧困や低学歴が原因でもなく、社会的な構造などが関わりあっています。

このような問題に、しっかり向き合って支えている人たちがいることも、少しは救いではありますが、こうして亡くなった子もいる世の中で、大して優秀でもなく力もなかった自分がこの年齢まで生きながらえていると思うと、自分も社会に還元していかなくてはと思うばかりです。

親ガチャという言葉は、社会構造の隙間からにじみ出した現象にすぎず、その親ですら崖っぷちになっているのなら、もはや、地域ガチャであり、国ガチャです。

人は、もっと自分の生活をよくすることができるはずです。

コロナ禍で、状況は悪くなることばかりですが、悪いところが可視化されて、修正されていきますように。
「生きていくのも悪くはない」と、みんなが思える社会になりますように。


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